先日、バスで思いがけない体験をした。あるバス停で障害のある男性が乗車してきた。私はバスの最後尾の席に座っていたのだが、彼が私の左隣に座っていた男性に「そこに座りたい」と手振りで示していた。それを見た私は右側に席を詰めて彼が座れるようにした。それで彼も座れたのだが、なぜか元々私の左側に座っていた男性が怪訝な表情で別の席に移動してしまった。
私はメールをチェックしようとスマホをポケットから取り出そうとした。その次の瞬間、私の左手がぐいっとものすごい力で掴まれた。突然のできごとに頭のなかは真っ白になった。左隣に座っている障害のある彼が私の左手を彼の右太ももに置こうとしているのだ。私に抵抗されまいと力を入れているのがわかった。しかし、「きっと彼は人に触れられると気持ちが落ち着くのだろう」と思い、抵抗するのをやめ、恐る恐る彼に私の左手を預けてみた。彼は私が抵抗しないことがわかると、ぐいっと掴んでいた手の力を緩めていった。
私が男性の太ももの上に手を置いている光景は、周りの人には異様だったと思う。しかし、強制的ではあったが見知らぬ彼のために、咄嗟に私ができるサポートをしているのだと思うと悪い気がしなかった。しばらくして彼は「ありがとう」と思われる手振りをしてバスを降りていった。
この体験がきっかけで、亡くなる前の父に触れ続けた経験を思い出した。身体に触れると、身体が緩み心も緩んでくる。当時、抗がん剤に苦しむ父に私ができることは触れることしかなかった。ところが、他の誰も父に触れようとしなかった。そのとき「人に触れること」がもっと自然で当たり前のことになることを願い、私はボディワーカーになった。しかし、時間が経つにつれ、その気持ちを心の片隅に追いやっていたようだ。報酬や認められたい気持ちに囚われて、自分を大きく見せようとしたり、人目を気にしたりしてしまっていたのかもしれない。私は人が人に触れる光景になんとも言えない美しさを感じるし、それを当たり前の光景にしたかった。その気持ちを思い出し、「私のままでいい」のだと思った。
実は彼に右手も求められたのだが、両手を預けることはできなかった。突然見知らぬ人に触れるという体験を味わう一方で、いつもの「自分」を保ちたい気持ちが出てきたからだ。もしかすると席を移動した男性も、ただ「私のままでいること」を実践しただけなのかもしれない。