コラム

人生は「道草」だ

最近思うのは「人生」ってつくづく「小学校の帰り道」みたいだなぁということ。私は大人の足で10分程度の場所にある小学校に通っていた。新興住宅地で一度も道路を通らずに歩道だけで通えたほど区画整理された街だった(その弊害もある)。

それでも私の校区では遠いほうだったので、途中でひとりになる私は、とことん道草して帰った。母にはよく「あなたの学校は遠いのねぇ〜」と笑われたほど。おそらく30〜60分かけていたのだろう。

「道草」は、「発見」と「挑戦」の連続だ。いろいろな新しい発見をしながら家路を進む。毎日「へぇ〜」「なるほど!」と思いながら歩く。

土手に寝転んで空を流れる雲を眺めたり、50〜60cmほどの高さの緑色の柵の上をどれだけ長く歩くことができるか試したり、てんとう虫の動きを観察したり、目を閉じたままどのぐらいまっすぐ歩けるか試したり、エノコログサやぺんぺん草を集めたり、シロツメクサを摘んだり……。ススキの穂をハサミなしで採取するのが得意で月見のころは人に頼まれていたほどだった。

緑色の小さな柵の上を歩くのは楽しかった。「昨日は2歩しかできなかったのに、今日は5歩行けた!」なんて挑戦してみる。高さや、場所、柵の傾き具合によって歩ける距離は変わる。途中で落ちると悔しい。落ちると、たまに股を打ったり、足をくじいたり……。膝を擦りむいて帰ったこともある。

毎日道草をしていると、季節の移ろいを肌で感じることができた。雨が降る前の匂いや、夕立のあとのアスファルトの匂い(土じゃないのが残念)。そういえば、夏休みのプールの帰り道は、どのぐらい裸足でアスファルトの上を歩けるか……というアホなチャレンジもしていた(熱すぎてほぼ歩けない)。

毎日、自分でなにかの課題を自分に与えていた気もする。

夢中になって時間を忘れることも多く、土曜日の半ドンの日には、お腹が空き過ぎて「あっ! 帰らなきゃ」と気づくこともあったほど。

先日、『マイノリティの生きる道』に「認知」の話を書いた。

人は「認知」するために、一旦、なんらかのフレームにモノやコトを入れる。だけど、本当はムリに入れる必要はないし、入らないものもある。一旦入れて納得したら、そのことはすっかり忘れてしまって、ぽいっと手放せばいいんだなと、最近の私は思っている。フレームごと壊しちゃってもいい。

固執するとそこにエネルギーを注ぐことになる。エネルギーのムダ遣いだ。

そのフレームをしつこくのぞいたり、「嫌いフレーム」や「苦手フレーム」を抱えて、そこに入ってくる人がいないかどうかを探すほど怖がる必要はないのだ。逆に「好きフレーム」を抱えて、だれかを探す必要もない。

仕事で恋愛コラムを書いておいてなんだが、私は、「恋人」は基本的には探さない。「恋人フレーム」はなくて、「気が合う人フレーム」「おもしろそうな人フレーム」を持っていて、たくさんの人に話を聞く。大枠では「魅力的な人フレーム」だな。そして、その「魅力的な人フレーム」が、ぽこっと、分離して、「恋人にしたい人フレーム」に変化する。そんなイメージだ。

横道に逸れた。道草が好きだから仕方ない。

道草していたころは「フレームに入れる」ことすらなかった。雲が変わっていくのを見ても、いつまでも雲といっしょにはいられない。てんとう虫は、こちらのことなんて「あ、そこにいるの?」「ふーん」ってな感じで去っていく。

たんぽぽの綿毛を吹きまくる。「アスファルトの落ちてしまった子はこの後、どうするんだろうか?」。でもそれを追いかけることはできない。あ、石っころを拾ってきてはいたかな。

人目を気にしたり、「どうしてもほしいもの」「ずっと持ち続けたいもの」が出てきたり、オトナになると固執することが増える。あのころの道草のほうが、ずっと「いま」だけを見て「禅」に近いものがあったように思う。

道草して発見したこと、そのとき感じた気持ち、それを宝物にすることはあっても、そこで出会った雲は二度と見ることはない。そこで出会った花や虫にも二度と会うことはない。手に入らない。ただ出会って、そして別れる。それが、いま「生きるうえで大切」と思っている状態と似ていると思う。

モノやコトに出会う。
自分なりの解釈をしてそれを受け入れる。
「そうだったんだね〜」と手放す。

それでいい気がする。私の場合は、それをこうして記事に書く。「こんなこと気づいたよ」、そして、書いておいて自分は忘れる。

フレームをたくさん作ったり、記憶を抱え込んだりするのは、きっと「怖いから」。思春期のころの私はそうだった。

固執は人生の参考書を溜め込んでいる状態だ。次になにがやってくるのか待ち構えていて、それを自分のどのフレームに入れるか、入れられないものがあったらどうしたらいいのか慌ててしまう。フレームにモノがたまりすぎたら動きにくいはずなんだけどな。

私たちが出会う人も、モノも、コトも、きっと「出会ったときに自分とどう化学反応するか」だけを楽しめばいい。すべて「へぇ〜 そうだったんだ〜」とわかるための出会いでしかないのかもしれない。

ちなみに私の夫は「見て! ここに新しいアリの巣ができてるよ!」「たけのこ見つけた!」という発見を「本当だ!」といっしょにしゃがんで眺めてくれる相棒だ。

「私を助けてくれる王子さま」なんかじゃないし、そんな“だれかのため”に生きているような人、楽しい「道草」についてこなくていい。

そうやっていっしょにわくわく道草できる人と、どんどん仲間になりたい。いっしょに遊ぼう♪

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