生きていくうえでの「大前提」というものがあると思う。「前提」なので、もちろん生きていくなかで更新され続けているものであり、想像以上に、人によって大きく異なるものだと思う。そこで、私の「大前提」の一部を列挙してみる。

・人はみな「変化」し続けているものである(細胞も心もね)
・人は生きている限り「成長」していくものである
・そのために人は「自己対峙」しなければならない
・自分の嫌な面を「ごまかしている」限り「成長」は望めない
・とはいえ、人は成長過程において必ず一時的に「ごまかす」時期に入る
・ごまかしたり揺れたりすることは人間としてとても自然なことである
 ゆえに責める気はまったくない(そんなものだから)
・しかし「ごまかしている」状態だと人は深く強いつながりを築くのは難しい
・「ごまかしている」ことを見抜ける人はこの世にたくさん存在する
・つまりどれだけ「ペルソナ(仮面)」を被ってもバレる人にはバレる
・それゆえやはりなるべく「本音」の部分での関係をつなげていきたい
・人は「不完全」だからこそ生まれてくるのであり「完全」な人などいない
・どんな人にも「光(長所)」と「陰(短所)」があり表裏一体である
 つまりどんな人にも「マイナス感情」もあれば「愛」もある

これは、「大前提」の一部だけれど、私たち夫婦にとって共通の「大前提」でもあるかもしれない。

こういうブログに中途半端に「本音」を小出しに綴っていくと、読んだ人にとっては「責められた」と感じる、つまり、「本音」というものは、受取手によっては「攻撃」となり得る可能性があるらしい。

でも、大前提として「人って不完全」だと思っている身としては、実は、意図して批判しているつもりはないのだ。

「本音」や「自己開示」は強要することはできないし、強要するつもりはない。
とはいえ、なるべくやはり「本音」で話せる仲としてつながっていきたい。

そう思っていたはずなのに、この数年、キラキラした魂の人に次々に出会うことができたことで、「早く本音で生きる仲間になろうよ!」と、心のどこかで周囲を急かしていたのかもしれない……と最近、気づいたのです。

「本音」は受取手によっては「攻撃」となる。
つまり、「本音」によって「愛」がちゃんと伝わるとは限らない。
そして、「建前」や「演技」だからこそ伝わる「愛」もある。

それを学ぶことが、この数年の「課題」の一つであったようです。それぞれのペースがある……と知りつつも、どこか焦っていたのでしょう。ポイズンな私の母親と同じことをしていたのですね。反省。

攻め合うためではなく助け合うために出会う

私たちは「異なるもの」を排除する傾向にある。ツイッターなんかを見ていても、右翼か左翼かだけで人が批判し合っている。でも、そうじゃないはず。

私たちは「同じになるため」に生きているわけではない。
異なって当然だし、違うからこそ互いの存在価値があるはず。

自分だけが助かろうとする。
自分だけが特別であろうとする。

日本の学校の成績の尺度である「相対評価」の影響もあると思う。一部だけが優位に立つことになって当然だと思ってしまっている。

でも、「平和な世の中」「輝かしい未来」を望むのであれば、「絶対評価」の尺度で物事を見ていく必要がある。それを考えると「違う」ことにより排除する考えというものは、一番あってはならないことだ。「違い」をどう活かし、どう協力し合うか、ではないだろうか。

それを小学生のころから考えていたはずなのに。

「見る景色」が違う者同士が助け合うことが重要。という、この世の大切な法則を思うとき、「成長」の度合いが違うことも、「視点」が違うことも、本来は当たり前のこと。

それに伴い、こちらの見ている景色を知らずに「的外れな説教をしてくる人」や「誤解する人」がいることも、きっと当たり前のこと。

「多様性を認めるべき」と思いつつ、この「心の成長」の多様性については許容範囲が狭くなっていたことに、気づいた次第です。

心は春夏秋冬「螺旋」に成長する
ステージアップすると世界は違って見える

内省……つまり自己対峙することは、私にとって子どものころから、身近なことでした。どうやら「反省」しないと次へ進めないらしい(=似たようなことが起こるらしい)ということに気づいたのは小学校の高学年のころ。

自己対峙すると一度は自分が深く傷つく。
でも、自己対峙して「変容」したその先に、必ずいいことが起こる。

自分の「醜さ」「愚かさ」に触れるのは怖いし、悲しいし、辛いし……不快だ。でも、そこに必ず「成長の素」が存在する。

向き合わずには「ステージアップ」は望めない。「傷つきゾーン」という過酷なトンネルを通らないと、人は次のステージにはいけない。「冬」を越さなければ「春」は訪れない。

人の成長とは、春夏秋冬の流れと同じ。

それも「大前提」。ゆえに、「自己対峙」は、私にとってはとても日常的であり自然なことである。鳥瞰(俯瞰)している分、「気づきゾーン」に入ることに躊躇いもないが、そうやってステージアップしてきた分、視座が上へと上がり、さらに鳥瞰できる。

変容すればするほど広く見渡せるので、世界は自分に優しいと気づける(たまに「雲海」に邪魔されて見えなくなることもあるけれど)。 

こうして周囲の人たちの「心の成長を求めていた」という「気づき」を得たので、おそらくまた次のステージが待っている。これが自己対峙の面白いところ。

自分を見つめることは、自己否定することではない。
すべきことは「否定」ではなく「反省」。
反省して「気づき」を得ること。

自己を見つめ「そこにある気づき」を得ることができて「反省」することができれば、それが次のステージへの「鍵」となる。次の世界の扉を開けることができる。

そうやって扉を開けるたびに、世界は広がり、本当に信頼できる絆ができていく。わくわく生きていくことができる。かといって、それを人に求めてはいけないのだということを、再確認しました。

さ、進もう。
それにしても、「大前提」や「在り方」の見直しの時期なのだな。
次の世界も楽しく、ゆっくり、マイペースに歩いていこう。

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