コミュニケーション コラム ブラックシープの想い出

「あの歌詞が嫌いだったのよ」

「わがままは男の罪 それを許せないのは女の罪」という歌詞の歌を、学生のころ、あなたはよく聞いていたでしょう。お母さんは、あの歌が嫌いだったわ。

と、生前、母に言われたことがある。母は自分の記憶力について非常に自負していた。いろいろな人の誕生日も覚えていたし、些細なできごとの記憶が違っても、逐一指摘してきたものだ。

「今を生きる「忘れる力」」という記事を書いた相方とは真逆だ(笑)。

過去の話をしているとき、記憶に食い違いがあると、どちらでもいいようなことでも母は一歩も引かない。その執着たるや異常なほどだった。

例えば、実家に帰って会話をしているときに、「○○したのって、○年の春ぐらいだっけ?」なんていう記憶に行き違いあって、「いやいや、たしかあのときは……」なんて、互いの言い分を伝え合って、どちらがあっているか決着がつかないまま、その場の会話はフェードアウトする。他の話題に移り、私のなかではもうその話題なんてすっかり忘れてしまう。ところが自分の家に戻ったころに、母から家に電話がかかってくるのだ。

「あぁ、あのね、さっきの話だけどね、お母さんの記憶がやっぱり正しかったから」「19○○年の手帳にメモしてた」「全部書いてるから」と、調査報告のみの要件。

どうしても「自分の記憶が正しい」と納得し、相手にもそれを伝えないと気が済まないほど勝気なのだ。

その記録が間違いである可能性も否めないはずなのだが、「自分の記憶がいかに正しいか」という話題が非常に多く、できごとを書いた過去の手帳をすべて残しておいて、いつでも確認できるような状態を保つということ自体、勝気ということ以前に、そもそも母にとって殊の外重要なことだったのかもしれない。

記憶が食い違ったまま決着できない、つまり確認しようがない場合、私がいかに間違えているかを、その場にいなかった姉や、叔母など親族にわざわざ電話して伝えたりするのだ。

そして、冒頭の歌のことも、自信たっぷりに「あなたがよく聞いていた歌だ」と言い出したわけだが、小学生のころからジェンダーな思考軸があった私が、そんな歌詞の歌を繰り返し聞くわけがない。仮に聞いていたとしても忘れているはずはない。

基本的に洋楽が好きだったのもあり、日本語で歌詞が聞き取れる歌い方の邦楽アーティストはある程度、絞ることができるのだが、この歌詞には記憶がなかった。「知らない」と伝えても、母はいつものように「私の記憶は正しい、あなたが忘れているだけ」を繰り返す。あまりにしつこいので私は歌詞をヒントに調べてみることにした。

それはインターネットが普及する前。レンタルCD屋さんで思い当たる昔よく聞いていたアーティストのアルバムから探したり、人に聞いてみたり。そして、ついに見つけた!

『チューリップ』というバンドの歌『虹とスニーカーの頃』だった。早速、レンタルCD屋さんの視聴コーナーで聞いてみると……

「人生で一度も聞いたことないよ、母上!」プンスコo(*`ω´*)o。

「お母さん、その歌『チューリップ』というバンドだそうです。
 私、チューリップは聞きません。
 もちろんカセットテープも1本も持っていません」。

そう説明してやっと、母は自分にも記憶違いがあることを認めた。今ならネットで検索して早く決着がついたかもしれない。この記事を書くにあたって調べてみると、バンドの結成は私の生まれた年だし、この曲がリリースされた1979年って、私は9歳。小学4年生だ。

母の「正しさ主張」のあまりの執拗さに、精神科医の友人に相談したことがあるほどだったが、この一件で、わざわざ電話で追いかけてくることはなくなった。

勝気な母のおかげで
育まれた「文章構成力」

母との会話で、自分の主張を伝えるのは、さながらディベートの実践。常に自分が正しいと主張する母の論点の矛盾をついて、壊さなければ、こちらの話を受け入れてもらえないので、非常にエネルギーが要った(壊してもほぼ聞く耳は持っていないが)。

とはいえ、そのおかげで、人の話を聞くときに「論点」を捉え、話の矛盾にいち早く気づける能力が高まり、それが「読解力」「文章構成力」「インタビュー力」として身についたことについて、母には心から感謝している。

また、母は固定観念で決めつけて攻撃する会話が多かったので、「私は、子どもが生まれたら、決めつけずに最後まで話を聞こう」と思えたので、結果、「傾聴力」も自然に高まった。

いかに自分が正しいか。
それを主張することは「戦い」を生む。

宗教による戦争などはいつもそれだ。

心理学によく登場する
「You’re OK. I am OK.」
の状態になれば済むことなのに。

正解はひとつではない。
真実もひとつではない。

そう、真実はたったひとつだとするのは、それぞれ視座が違うことを考慮できていない主張なんだよ、名探偵コ●ンくん。各自の視座が違う限り、起こった事柄が一件でも、それぞれの受け止め方は異なる。

このことを知っているだけで、争いは起こりにくくなる。自分の心も平穏に保ちやすくなるのだ。そして、「曖昧な自分」を知っていると、「私が正しい」は減る(笑)。

そして、
・何十年も先に生まれた親が精神年齢が上でなければならない
・親は愛を与えてくれるものだ

・家族なら自分を理解・同感してくれるはずだ

という観念そのものも、イラショナルビリーフなんだと気づけることも、きっと、ハッピーになるためのひとつのきっかけになる。

冒頭の母の記憶の間違いは、私にとってスッキリするできごとだったが、それで完全に「正しさへの執着」がなくなるような母上ではなかった(笑)。

でも、そんな母のおかげで、私は「私は○○だと記憶しているよ」「~だと私は思うよ」という「アイメッセージ」が大切であるということに、心理学の勉強を始める前に、自分の力で気づくことができた。

母がいつも、主観的かつ「ユーメッセージ」だったおかげだ。ある意味、母は心理学の参考書のような存在だったのかもしれない。

母がなぜそんなに歌詞をはっきり覚えていたのか。亡くなった今、真相はわかりませんが、よく仕事(裁縫)しながらラジオを聞いていたので、そこで聞いたのでしょう。

数回で記憶に残る歌詞が作れるなんて、チューリップあっぱれ! 

きっと、「男(父)のわがまま」がきっかけで、青春レベル級ではない「重責」を背負わされ、それを許せずにいた母には、この歌詞が引っかかったのかもしれません。私も前夫で苦労し離婚してから許すことができたものの、男性アーティストに「許せないのは女の罪」とは、やっぱり言われたくないかな(笑)。

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