コラム 子育て

命を預かること

今日は、長女の25歳の誕生日。私が彼女を産んだのも25歳。足したら、私の年齢になる(笑)。娘の2倍の年齢ってなんだか面白い。記念すべき日かもしれない。

保育士をしていた私にとっては待ち望んでいた赤ちゃん。24歳で結婚しハネムーンベビーを授かりました。でも、妊娠がわかった6月から激しいつわりに襲われ、激やせ。8月には体重は30kg代目前まで減ってしまいました。看護師さんには「アイスクリームでもゼリーでもいいから食べなさい」と言われました。

妊娠がわかった6月は、車の免許の取得のために教習所に通い始めたころでもありました。

24歳で自動車の免許って、遅くない?とよく言われますが、短大を出てすぐに私は中型の自動二輪の教習に通い、250ccのバイクに乗っていたので、車の免許はまだだったのです。

5月に結婚した当初、前夫は「『おかえりなさい』と言ってもらいたい」と言っていたので、一ヶ月だけ専業主婦になる約束をして、6月初旬にはフリーの編集ライターを細々と始めていました(汗)。でも、リクルート時代があまりに忙しすぎたので、多少の仕事だけでは時間を持て余し、自動車の教習所に入ったものの妊娠発覚。しばらく休んで安定期に入ってから再度通い始めると、私の担当教官は教習所の最年長である元警察官のおじいちゃん先生が専属となりました。バイクに乗っていた私は、左右の位置感覚(車体の幅)がなかなかつかめず、教官に「おいおい、わしの幅も考えて運転してくれ〜い」と言われてました。膨らんでくるお腹に向かって「あんたの母ちゃんは、やんちゃやからの〜」「あんたもスピード好きな子になるんちゃうか」と間接的に注意されたりしていました。

そんな落ち着きのない妊婦生活は最後まで続きました。翌年1月にはUR賃貸が当選したので身重の体で引っ越し。出産予定日は2月16日。「きっと遅れるでしょう」と言われていたので、2月5日の夜、仕事帰りの前夫と「最後の晩餐」をしに、梅田にある焼き鳥屋に行くことにしていました。

曽根崎警察の地下の入口の前で前夫を待っていると、上司で編集長の岡本さんにばったり。

「おいおい、そんなお腹でなにしてんねん?」
「あ、『とりとり』に焼き鳥食べに……」
「えええ!!( ̄◇ ̄;) 気をつけてや〜!」

という会話を覚えています。焼き鳥と日本酒のおいしい店だったので、下戸な私も、ちょこっとだけ日本酒をいただきました。そして、夜、寝ていたはずが腹痛で目が覚めたのです。

「あぁ、食べすぎた。下痢だ……」

何度もトイレに通うのだけれど、なかなか便が出ない。

「こんなにお腹が痛いのに、なんで便が出ないんだろう……」

と、ちょっといきんでみたりしていると、

「???」

便の代わりに、なにやら見たことのない透明の水が! 肛門からではないことを確認しながらギョッとして、慌ててシャワー。それから、バスタオル一枚くるりと巻いただけの状態で、正座して出産の本を開いてみる。

「……どうやら、これ、破水っていうのんみたい……ってことは、この痛みって下痢じゃなくて陣痛だったの!!???」

急に緊張して冷や汗が出てきました。その間、ずっといびきをかいて寝ている前夫。本を読み進めると「破水したらシャワーをしてはいけない」と書いてある。えええーーーもうしちゃった(´・ω・`)。

仕方なくパジャマではなく外出用の服を着て、前夫を起こし、出産の用意をバッグに詰め始めながら、母に電話。千里にある実家の近くの総合病院に通っていたので、当時の自宅のあった阿倍野区天王寺町からタクシーで移動(車を所持していなかった)。

無事に入院したものの、陣痛の感覚は狭くなったり遠のいたり。羊水がどんどんなくなるのになかなか「いよいよ」とはならないのですよね。

結局、実際に出産となったのは、7日の明け方3時。週末だったので、いつもの医師ではなく、見たこともない当直の若い先生ひとり。看護婦さんはナースコールで呼ばれてしょっちゅう出ていく。不安のなか、よくわからないまま出産。

3036gのおにぎり頭の小さな女の子がつるん!と出てきました。生まれたときから長い睫毛で、くっきりしたお目目をまぶしそうにパチクリパチクリしているのを今でも覚えています。

陣痛微弱になるのは体質的なものもあるらしく、その後の次女も三女も時間がかかるタイプでした。今思うと……ですが、小心者で「不安」が強すぎてお産が進みにくいのでしょう。

初のわが子って、名前で呼ぶのすら「呼ばせていただきます」みたいな気持ち。保育園にいた新生児よりずっと小さくでどうやって抱っこしたらいいのか……。腰の引けた私は、助産師さんにも「しっかり! あなたはもうママなんだから堂々としてね」と言われたほど頼りないママだったからか、長女ちゃんは堂々たるキャラに育ちました(笑)。1歳にして「我」を出す長女には頼もしさすら感じました。

しっかりものの姉がいたわが家では、私はいつも「だれかがやってくれるだろう」感覚で生きてきて、甘えるのだけは得意だったのだけれど、だれかを「世話をする」というのが慣れなくて。出産したその日から、毎日が緊張の連続

「命を預かるってこんなに大きな重圧なんだ!」

両親とは合わなかったけれど、姉がいつもそばにいてくれたし、私はなんてのんびりと、だれかに頼って生きてきたんだろう!と、保育士経験があってもそう思いました。

「だって、8時間で帰ってくれないんだもん」

というのが、保育士の私が最初に思ったこと。24時間ずっと、小さなかわいい頼りない命をずっと見ているということが、当時の私にとっては本当に全身緊張(汗)。

次女、3女と続いていくわけですので、私はその後、何年も、子どもたちを寝かしつけるまで全身を緊張させて生きていたのだと思います。

保育士経験だけではなく、母がよく赤ちゃんを預かっていたこともあり、赤ちゃんの世話を「どうしたらいいのかわからない」ということは不思議なぐらいにありませんでした。

赤ちゃんが泣いている理由もわかります。どうしてもわからないときはだいたい「翌日、発熱」です。つまり、体調が悪いのです。それ以外、理由もわかるし、泣き止ませる自信もあるほどでした。赤ちゃんをリラックスさせることは得意なのです(私がリラックスするからなのですが)。

だけど、この「緊張感」「重責」が私には大きな大きな負担でした。その後、そこへさらに前夫の借金、転職癖、暴力などいろいろのしかかってくるわけですが、それよりもまず、1日が終わると、全身から気が抜けるほどの緊張感。

代わってもらえる人がいないからっていうのもあるでしょう。うちの場合、親と同居もしていない、前夫は家事も子育ても協力的ではないうえ、なぜか長女は父親に抱かれると泣くので彼には預けられませんでした。

代わりがいない状態で、いわゆる今でいうワンオペ育児。私の場合なによりもその「重責」による疲弊がすごかったのを記憶しています(笑)。

でも、とにかく子どもが好きな私にとっては、彼女の誕生はもう幸せで幸せで。よだれが出そうなほど眺め続けました。撮影しまくりました。いっぱい話しかけ、いっぱい抱っこして、いっぱい遊んで、いっぱい連れ出しました。

「産んでよかった! 生まれてきてくれてありがとう!」

どれほど辛かったときも、ずっとそう思ってきました。反抗期の激しい(そして長い)長女ちゃんでしたが、それはそれ。娘たちの存在は、きっと、一生変わることのない私にとっての宝物です。その壮絶な反抗期についても、また別の機会に書いてみたいと思います。

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