子どもから大人になって、ある程度社会のルールに順応して生活している。しかし、私たちはその社会のルールがなぜ必要なのか? どうしてそうするのか? 本当に理解しているだろうか。もしかすると、ほとんど理解していないんじゃないだろうか。そんな気がしてならない。
例えば、誰もが関心がある「健康」についてもそう思う。「健康とは何か?」と聞かれて、すぐに明確に答えられるだろうか? 答えられない人が多いのではないか。健康診断の結果に問題がなければ健康かというとそうではない気がする。健康診断の結果に問題がなくてもストレスが多くて窮屈だと健康とは言えそうにない。はっきりとしないものをどうやって求めるのだろうと思うが、それでも健康を求めて生きているのだ。
こういう話をしていると、健康とは「健体康心の略で」と詰まらないウンチクを話されることがあるが、そんなことを聞いているのではない。「健康」の概念は人それぞれあるのはわかるが、「健康になる」ことを目的にすることに、何か大事なものを置き忘れているような違和感を感じるのだ。
健康のためにミネラルやポリフェノールをせっせと摂取していても、自分に嘘をついてやりたくないことを我慢してやり続けるのは健康の目指すところではない気がする。また、逆に五体満足でもやりたいことが見つからず引きこもっているのは健康と言えるだろうか。私たちが健康を求めるのは「どう生きたいのか?」「どうなりたいのか?」があってこそではないだろうか。健康を求めるのは、そのために五体満足である方が実現しやすいことが多いからだ。
先日、インフルエンザになった。インフルエンザは感染力が高いのと、1週間動けなくなるので恐れられているが、実はそんなに怖いものではないと私は感じている。私は4〜5年に1回インフルエンザにかかっている。40度の熱で癌細胞が死ぬという話もあるが、ときどき免疫力を活性化させることは身体にとっても有益だ。
ところでインフルエンザウィルスはどこからやってくるのかご存知だろうか。インフルエンザウィルスは、シベリヤの凍土のなかにいて、そこから渡り鳥に感染し、豚に感染し、人に感染する。つまり、ウィルスは永久凍土に保存されているのだ。そして、ウィルスは人の細胞に感染する。これは想像だが、ウィルスは永久凍土に保存されている何かの情報を持っていて、人の細胞に感染することで人の情報を更新していると考えることはできないだろうか。まるでコンピューターのOSをアップロードするように。人の身体もコンピューターのように定期的にバージョンアップする必要があるのではないか。
そう考えるのは、インフルエンザにかかると、身体が変わるだけでなく、人生が劇的に変わる傾向があるからだ。今回のインフルエンザで自分にとって不必要な古い習慣(パターン)に対して、違和感を感じるようになっている。大好きだったコーヒーが飲めなくなったり、食への興味が変わってきている。そして、心身の変化も感じている。
悪いものと教わってきたもののなかには、実は人にとって必要な影響を与えるものだったと考えが180度変わることがよくある。そのたびに私たちは振り回される。それは結局のところ、わかっているようで何もわかっていないんじゃないか。そして、誰かの考えをうのみにして、自分の体験から考えることをやめてしまっているのではないだろうか。そういう気がしてならない。
「どう生きたいのか?」「どうなりたいのか?」は誰も教えてくれない。自分の体験から考え見つけていくしかない。そのためには人の考えを鵜呑みにしないことは重要だ。体験から考えを巡らし、また体験を積む。その繰り返しではないだろうか。