『マイノリティの生きる道』『人生は道草だ』で書いた「認知」に関する続編です。認知のフレームについて書いたことで、少し補足説明がいるかなと思ったので。

最初に、私の思う「前提」について少し説明したいと思う。

人の心の成長は「利己」から「利他」へと進むと一般的には思われているようだ。「利己」が幼い、「利他」は良いこと……と思われがちだ。ところが、「利己」より「利他」に偏っている人は意外に多く存在する。自己犠牲をいとわず、自分を押し殺して生きる利他的な人の今生での学びは「利己」だ。人の心がみな同じ成長をしていくとの決めつけこそ固定観念だ。と、私は思う。

「利己」と「利他」は「陰陽」の関係と同じだ。

みんなどちらも持っているし、どちらが悪いというわけではない。バランスが大切で、どちらも偏りすぎるとダメだということ。

陰極まれば陽となす。陽極まれば陰となす。

「利他」も「利己」につながっている。「承認欲求」という我欲あっての「利他」なのかもしれないわけで、「人を思い通りにしたい」という「利己」が隠れているのかもしれない。

本来はどこからが利他で、どこからが利己かという境界線なんてどこまでも曖昧なはずだ。

もうひとつ、「子どもは白紙」で生まれてくるというのは固定観念だ。保育士をすると0歳からみんな個性的だ。それぞれ全然違う。性格も違えば、魂の年齢も違う(と私は思う)。

さらに、魂はおそらくそれぞれ違うレベル(=年齢。上下ではない)で生まれてくる。それが私の認識だ。そして、魂年齢によって「この世で学ぶこと」が異なる。ゆえに、最初が必ず「利己」とは限らない。そして、「利他」の精神で生まれてくる魂には、女性が多いというのが実感だ。実際、男性が広めてきた宗教では、「己を捨てる」ことを説いていることが多いが、女性は「宗教」として外から教えられることなく、自然と「活動」として「利他」の行為が見られることが多い。これは男女差別ではなく、心身の構造上そうなりやすいのではないかというのが私の考察だが、長くなるのでやめておく。

私自身、利己と利他、どちらも小さいときから強かった。「私が」という我を家庭ではしっかりと出す一方、社会では小さいころから「相手とどういう関係か」、関わりの深さ・長さに関係なく、「相手を助ける」ということを、やってきた。だれかが見ていても見ていなくても、「だれかを助ける」「喜んでもらう」という流れの心地よさを知っていたからだ。「ありがとう」がほしくてというよりも、自分がうれしくて人助けをしていた(それが後に『不幸中の幸い』に恵まれた理由のひとつだと思っている)。

一方で、家庭での自分の地位を確保するために、かなり「わがまま」もしてきた。いつも姉に我慢させていたと思う。まぁ、うまく使われてもいたし、姉が好き過ぎて、ほぼ姉の信者のような状態だったのだけれど、姉妹としての関係性はうまく「循環」していたと思う。わがままだけれど、姉を慕い、姉の話をよく聞き、影響されて動く。そういう妹だったので、姉は毎日、学校であったことを、私に話してくれていた。あ、私の聞き役グセは、そこが出発点かもしれない。姉の話を聞くのが大好きだった。

肯定的に受け入れるためのフレームを用意する

なぜ「利己」「利他」の話をしたかというと、認知のときの「フレーム」は、「利他」のために変化させることができるという話をしたかったから。

フレームを作ることが悪いというわけではない。フレームとレッテルは違うよ。フレームがレッテルにつながるのはNGだ(つい、やっちゃうけど)。

ということを伝えたかったのだ。フレームは「分析」には役立つ。ただし、その目的は「受容」のためでありたい。その後、いつまでも分析に固執し、ジャッジし続けたり切り捨てたりするのは違うのではないか。ということ。

そして、「分析」するときに、自分自身が、どういう「心」で分析するか……で、フレームの形も名前も、自在に変化させることができるので、フレームを使った認知は、マイナスの行為というわけではない。ということ。

このことを追記しておきたかった。

私は「どうしたら嫌いにならなくて済むか」ということのために、フレームを変化させてきた。小学生のころから、攻撃されたり、村八分にされたり、裏切られたり……という「人間の生々しいダークサイド」に触れることが、私の今生での課題のひとつだった。そこで、「その加害者たちとどう接すればいいのか」「どう捉えたら、その友達を嫌いにならなくて済むか」ということを、考えてきた。もちろん被害後すぐは嫌いだ。素直に大嫌い(笑)。でも、そういう気持ちを持ち続けるのが不快なことも、子どもながらに感じていた。

だから、嫌わないためには「きっとそういう行動をする理由があるはずだ」と考える。相手を「いじめっこ」のフレームに入れるのではない方法を考える。

私はそうやって、4年生のときにずっと無視したり意地悪したりしていたMちゃんと仲良くなって5年生では、Mちゃんと私は親友になった。今も年賀状のやりとりが続いている。Mちゃんは私を無視していたことは覚えていないらしいが、私は最初の怖かったMちゃんを覚えている(汗)。

6年生のときもいつもすぐに叩きながら貶してくるYくんに「メガネ、メガネって乱暴にメガネ取ろうとすんの、やめてくれる? これフランス製なんだから!」と言い返した。勇気を持って。すると、Yくんがそれから「おい! フランス製!」と私を呼ぶようになり、それから叩かなくなった。卒業のときのメッセージには「フレンス製メガネでがんばれよ!」だった。私は、彼を「ヤンキー暴力少年」のフレームに入れるのではなく「なかよくしたいけどできない不器用な男の子」のフレームに入れることで彼を受け入れたのだと思う。

「相手を嫌いになりたくない」。だから、自分のフレームを変化させる。

それは、分析したからこそ思いついたことでもある。だから、分析=ダメな行為というのも違うと思う。「ただありのままを受け入れる」なんてことを宗教なんかでも、最近のスピリチュアルな文書でも見かけるけれど、そんな簡単なことではないと思う。とはいえ、「彼は悪い人だ」で終わるのも違う。「彼は暴力的だ、不良少年だ」「なぜなら彼の姉もヤンキーだから」などという分析は、「偏見」や「レッテル貼り」のもとだし、「悪意のフレーム」につながる。

「どうしたいんだろう?」
「どんな意味があるんだろう」
「きっとなにか事情があるんだ」

そんな風に「相手を嫌わなくて済むにはどうしたらいいのか」を考えるためのフレーム設定もできる。そんなことを実際に私はやってきたよ、というお話でした。

あまり嫌いな人がいないし、カチンとくることはあるけど「それでもかわいい」と思えるのは、そういう目で人を見ているから。

昨年2018年は公私共に理不尽を久しぶりに味わった。あれは総復習だったのだろう。年初から誤解による攻撃を受け、いくつかの理不尽なエネルギーを吸い取られる事件があり、ヒトに敏感になったので反省。未必の故意による人間関係のもつれは、誤解を解くための数度のやりとりをしてみて、それでもダメなら、ご本人が「課題の分離」をするまで待つしかない。

今年は、いま一度「ヒトにフォーカスしない」ことを意識している。

話が合う人も希少だけれど、嫌いな人もあまりいない。すばらしいナカマたちとの出会いにめぐまれて、十分しあわせ。そして、書いたら手放す。最近は、嫌なことがあっても、それを歌にしてみたら楽しく昇華できた。そんな方法も今後はアリだと思う。

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