学生のころ、家から大学まで片道3時間かけて通学していた。つまり、1日の4分の1の6時間を通学の電車の中で過ごした。一日の移動距離は200km以上。よりによって工学部だったので、勉強する科目数が多く、毎朝5時代の電車に乗り、帰りは早くて22時ごろ、それを毎日していたのだ。

 電車の中での時間は、睡眠か読書の時間だった。この期間、本当にたくさんの本を読んだ。読んだ本のなかから自身に必要そうな情報を抜き出してまとめて一冊のノートに書く習慣はこのころから始まった。大学を卒業するころにはノートは7冊になっていた。そのノートはクリエイティブの仕事を始めたときに、企画を立てたり、企画書を書いたりするためのネタ帳としてとても役に立った。

 電車の中ではときどき私と同じように電車通学をしている友達に会った。その一人から聞いた話が私の人生を変えた。その友達はデザインの専門学校に通っていた。車内の吊り革広告を指差して「広告は読んでいるようで、実は読まされている」と言ったのだ。私はそれまでそんなことを考えたこともなかった。広告を読んでいるようで読まされていたんだ……ほんの少しだけ世の中の裏側を見たような気持ちになってワクワクした。広告業界ではこれを「視線の誘導」というのだが、それを知ってからは車内で広告を見るのが習慣になった。どういう風に視線を誘導しているのか研究したくなったのだ。

 そして、自分の意思で商品を買ったり、使ったりしているようで、実は誘導されているということが面白くて広告を研究しているうちに、自分でも作りたくなった。それで大学を卒業後も就職せずに、デザインの勉強を始めた。今考えるとデザインを教えてくれた先生たちがとても良かった。技術よりもデザイナーとしての在り方みたいなものを教えてもらった。

 例えば、「すべてのデザインには意味がある」ということ。デザインは日本語に訳すと「設計」だ。家の設計と同じで感性だけで作ると家は破綻するのと同じで広告のデザインも同様だ。ここ十数年の間に、デザイナー御用達のアプリケーション「イラストレーター」を使えるだけでデザイナーだと思い込んでいる人がものすごく増えた。そのなかにはアートとデザインの違いすらわかっていない人も多いように思う。感覚だけでレイアウトして、適当に配色するから、視線の誘導もできていないばかりか、そもそも広告に掲載する情報に優先順位をつけられていなかったりする。

 デザインというのは、チラシやリーフレット、広告などの宣伝物の見た目をデザインするものではないと思う。デザインとは「コミュニケーション」を設計するものじゃないだろうか。商品やサービスを知ってもらいたい人とそれを必要としている人を結びつけるもの。そして、そもそも商品やサービスは誰かの悩みから生まれたもので、別の誰かの悩みを解決するためのサポートになる可能性がある。だからこそ、それを広めるには愛情が必要だと思うのだが、見た目だけ綺麗でまったく愛情を感じない広告が街中にあふれている。もしこれが愛情を感じる広告が街中にあふれていたら世の中変わるんじゃないだろうか。昨日、そんなことを考えながら久しぶりに梅田の街を歩いていた。

 ちなみに私はデザインの仕事をしたり、デザイン講座をときどき開催している。もうデザイナー歴は15年だ。さらにライター歴12年、ディレクター歴10年、ボディワーク歴も10年だ。自分でもいろいろやっているなぁと思う。

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