コミュニケーション学なるものがあるらしい。私は学問としてのコミュニケーションを知らないまま、初対面で話を聞き出す「インタビュー」の知見を活かして、コミュニケーション講師をしてきた。最近になって通信の大学でコミュニケーション学も、学び始めている。

私が、コミュニケーションの面白さを伝えたい理由は、自分が昔から苦労してきたからだ。伝えてきた内容も、「コミュニケーションが苦手」な自分に誠実な人にほど、伝えたいと思っている。

コミュニケーションが上手な人は、

・要領がいい
・立ち回りがいい
・天然(生まれつき人がいい)

のいずれかではないだろうか。洞察力があるか、頭がいいか、人がいい。もしくは、危険察知能力や守備力が高い。一方、コミュニケーションが苦手な人は、想像以上に多い。

・嘘がつけない
・ずるしたりごまかしたりできない
・心を閉ざしている(生育環境にもよる)

という感じで、大抵、悪い人じゃなかったりするものだ。悪い人じゃないだけに、観察していたとしても悪いように想像できなかったり、上手に立ち回りができず攻撃力が弱い。私の場合も、小心者で感覚がずれていた。

人は、異質なものや、わからないものを、遠ざける習性があるので、変人は孤立しがちなのだ。

・女子の感覚とずれている
・精神年齢がずれている
・「好き」がずれている
・「許容範囲」がずれている
・「愚痴」への耐性がずれている
・「損得勘定」が備わっていなかった
・「正義感」が人よりも100倍ぐらい大きかった

そんな私の場合、相手を混乱させてしまうことがよくあった。

「ゆきちゃん、本当は○○されるのが嫌だったんだよね。無理しなくていいよ」

と、本人がまだ気づいていない玉ねぎの核心(心理学的でいうオーセンティックセルフ)の本音をエンパスで感じ取って伝えてしまうので、相手は無意識に怒りを感じ逆上する。それは、まだ本人が気づくと耐えられないようなコアだったのだろうと思う。

私は「ありのままでいいよ」と伝えているつもりだった。
優しさのつもりだった。でも、傷つけてしまっていた。

弱いところも、ずるいところも、全部そのままでいいんだよ。と伝えたかったのだけれど、私の指摘はだいたい、相手を逆上させることが多かった。私の思う「優しさ」は、だいたい相手にとっては「攻撃」となる。私には、そのさじ加減がわからなかった。今もときどき、相手を精神的に大人だと見誤ることがある。

・人は自分と向き合い心を成長させていくことに喜びを感じる生き物である。

というのが「人間のデフォルト」だと、私は思い込んで生きてきた。「成長するためにはかっこ悪い自分とも向き合うもの」だと。でも、そこに勇気を出せる人は、あまりいないのだということに気づき始めたところだ。

自分のかっこ悪いところとは、「向き合う」よりも、早く「脱出」したいと願う人のほうが多いのかもしれない。

「人からなにかを指摘されること」を「攻撃」とみなすのは、子どものときだけだと思っていた。でも、どうやら違うらしい。大人であっても、嘘でもいいので「表面的に優しい態度を取ってくれる人」というのを受け入れ、評価し、そういう人ばかりをそばに置いておきたい人もたくさんいるようだ。

自分に対して真摯に向き合うこと

前出のように具体的な指摘せずとも、私は「人の心を見透かしたような眼」をしていると、母親にもよく言われた。

未必の故意なのだが、私が相手の目をしっかり見ると、相手をびびらせてしまうことがある。相手は、妙に反省したり、妙に攻撃しようとしたりするのだ。だから、私はいつも玄関から一歩出ると、にこにこするようにしている。PC画面を見て文章を打つときも、笑顔で入力するようにしている(側から見ると不気味かも)。それでも厳しいと思われることがあるからだ。

そんな私には、子ども時代、気が合う友達というものがなかなか見つからなかった。毎年、一人ぐらいとっても気が合う人が見つかるのだが、なぜか家庭の事情で転校していった。

その一方、許容範囲が変に広い私は、「いじめてきた主犯格の女の子」とも仲よくなれた。いじめてきた子が、本当は仲よくしたいことにも気づけるので、なにを言われても、なにをされても、表面的な言葉を無視して関わり続けた結果だ。

敵だと思っていた相手と心が通い合うことは、本当に気持ちのいいものだ。

そんな感動を伴うこともあるので、いじめられても、だまされても、最後には「自分の信念に基づいて行動しよう」というところに、何度も立ち戻っていたものだ。これは神様に試されているのだなと感じていた。

光と闇を行き来してきたのだと思う。

実は、前夫を選んだときはダークサイドにいたときだった。結果、前夫のことでは非常にたくさんの苦労をしたので、33歳で離婚してからは、きっぱりと二度と闇には戻らないと決めた。34〜35歳のころ、身長180cmの江口洋介似のめちゃくちゃ好みのイケメン既婚者に何度も何度も誘われたときも、頑なに乗らなかった(笑)。「誘惑」は「人生の三大試練」の一つだ(たぶん)。

・自分の心がザラザラすることはしない

そう決めて生き始めてから、老若男女問わず、心が美しくない人と知り合うことはどんどん減っていった。私自身が、やはり小さいころから「エネルギーが鬱積した状態」で生きてきているので、うっかり「闇タイム」が訪れることはあるけれど、そこでどれほど孤独を感じたとしても、私には信頼できるパートナーがいる。家族がいる。

心がザラザラしていないか。
本当に自分をごまかしていないか。

と、ちゃんと問いかけることをしてきたので、30代半ばからは「相手のため」と言いながら自己満足のために相手にアドバイスする……なんてこともなくなった。だいたいそういうのは「余計なアドバイス」だからだ。

どれだけ嫌なことをされても、自分のことを謝罪するのみで、相手の非については指摘しない。嫌な人なら距離を置けばいいのだし、今後も仲よくしていきたい人なら、嫌なことは「NO」と伝える。

そして、それらはすべて「アイメッセージ」でおこなう。

「NO」ということをアイメッセージで伝える……ということすらせず、何も言わない「いい人」でいたかったのだが、それはこの10年ほどはやめている。

ところが。
ちゃんと「NO」を伝えたり、謝罪したりすると、多くの人は、その後、しばらく連絡が途絶える。

①相手を非難するのではなく、「NO」という自分の想いのみ伝える
②相手からなにをされていても、1mmでも自分に非があれば謝罪する

この行動は、私にとってどちらも「愛を持って伝えていること」である。相手を責めているわけでも、相手と決裂したいわけでもない。相手と仲よくなりたいからおこなうものだ。決して、悪意あるものではない。

でも、普段から表面的な「優しさ」に慣れている人にとっては不快なものとなってしまうのだろう。

禅の老師などには、私の考えは非常に面白がられる。そして、同じように「信念」を持っている人には受け入られる。

でも、これは「裏表を極力なくす」、つまり「ペルソナをつけずに生きる」ということを真摯にやってきてたどり着いた境地であり、それができない人、つまり、「ペルソナをつけていたい人」や、「ペルソナをつけていることを悟られなくない人」にとっては、非常に理解しがたいものとなるらしい。

そういう人たちにとっては「真摯な言葉」は「攻撃」と見做される。非常に残念だが仕方ない。

SNSやブログだけで、人は判断できないものだ。「いい人」にも「わけのわからない人」にもなり得る。そんな時代だからこそ、私は小手先の「コミュニケーションの技術」を伝えるわけにはいかない。

インタビューをするときも、セラピーをするときも、自分のなかにザラザラした悪意や先入観が存在しないように毎回、自分に問いかけてから臨んでいる。

もちろん仕事でのコミュニケーションでは、前出の「NOと伝える」ことも「謝罪」することもないが、「自分に嘘のない自分」で接していることには変わりない。

そういう状態でコミュニケーションすることで、表面的ではない「本当の意味での癒し」が起こっていく。そうなると同じように真摯に生きる人と繋がっていける。

そんな私の講座「インタビューセラピー®講座」に新幹線で通ってくださる生徒さんにも、やはり講座中に何度も必要な気づき(=癒し)が起こった。

インタビューセラピー®では、指摘もアドバイスもしない。それでも癒しは起こる。講師の私自身が、自分に対して嘘をついていないので、その講座も嘘やごまかしがない「場」となる。

そろそろ「自分らしい自分のまま人間関係を築きたい」と思っている人に、「人の話を聞くこと」の面白さ、ありがたさとともに、このクリアなコミュニケーションをお伝えしたい。

大げさかもしれないが私が伝えたいのは「愛」だ。小さな目の前の表面的なやさしさではなく、その人にとって、魂にとって、必要なことが起こるようにと大きな眼で見守りつつ、その方が、その方自身の「いのち」に誠実に生きるお手伝いができればと思っている。

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