子どもにイラっとするとき。

それは、どんなときでしょうか。本日、射手座の満月に向けて「自分を信じる」という挑戦をしてきた身として、どうしてもいま書いておきたいことを、この記事にすることにしました(ちょいと長いよ)。「挑戦」の中身については別件で。

子どもにイライラするとき、それは子どもが「言うことを聞かない」とき。では、言うことを聞かない子を見て、なぜイラっとするのでしょう?

「予定通りにコトが運ばない」という、目の前の現実問題もあるけれど、そこには深い深い理由があると思うのです。

……それは、「私(僕)のことを親として認めていないのではないか?」という不安です。

「言うことを聞かないなんて、私を親として認めてないのね」
「ばかにしてるんだ!」
「私のことを受け入れてくれていないんだ」

それが、深層心理ではないでしょうか。

いきなりの結論を伝えてしまいました。なかには認めたくない方もいるかもしれません。認めたくなければ、無理せず、そのまま。この記事を読むタイミングではないのだろうと思います。

「グサッとくるわ!o(`ω´)o」「でも、そうかも」などと思えたら、続きをどうぞ。

さて、私は、まさにこの理由でした。

そうなんです。私自身も、母に、「どうして言うことを聞かないの!?」とよく言われていましたが、別に母をバカにしていたわけでもなければ、母の正論が間違っているとも思っていませんでした。むしろ母のことを尊敬していました。

ただ、ただ、母の言う通りにすることが、私の「やりたいこと」と違っていただけです。

子どもにも好みがあります。
子どもにも意志があります。
子どもにも感情があります。

それをすべて無視して、こちら(親)のいいなりにさせることが、「言うことを聞きなさい!」なのです。

親の言うことを聞くもの。

それって、固定観念ではないでしょうか。極論すれば、人権侵害です(少なくとも思い返せば私が母に言われたセリフのなかには人権侵害がいくつもあった)。

親が子を養ってあげてるんだから? 性交渉したのも、出産するという選択を決断したのも「親」ですよね。私もこのセリフを母からよく言われましたが、実は「陳腐な説」だと思います。

性交渉して出産する=親として子を育てる意志がある、ということ(自覚の有無を問わず)。子ども側にももちろん「この世に生まれでる」という意志があったからこそ、受精&無事に生まれたのだとは思いますが、親が子に「親に養ってもらっている」という意識を植えつけるのは疑問です。

私の母は「お母さんの言うことを聞いて、お母さんに褒められたい(好かれたい)とは思わないの?」と言ってましたが、まさに「条件付きの愛」。

母の言うことを聞けば、母に愛される。そんなのおかしい。
「産み育てる」という選択をしておいて、おかしい。

私自身、この自分に染み付いてしまっていたこのセリフを、長女に一度伝えてしまったことがあります。でも言葉にして発してみてギョッとしました。なんとも気持ちの悪い違和感を覚え、その後、二度と言うことはありませんでした。その後、娘にも謝罪しました。

真摯に自分の心を見つめてみると、そこにはただ、私の不安があった。
それは「わが子にダメ出しをされている」という不安。

「私の子育てはこれであっているのかしら?」。

といつも不安に思っていました。親として自信がない。もっといえば、「人として自信がない」。保育士としての知識と経験はあっても、そもそも「自分に自信がない」。

自分に対して不信感があるから、子どもが言うことを聞かないと「怒り」に変換されてしまう。でも、その「怒り」の前には「悲しみ」がある。

「娘が私を親として受け入れてくれない(認めてもらえない)」という「悲しみ」です。

それって思い過ごし……いや、半分は正解かもしれませんし、実際に長女にはよく批判されていました。

でも、子どもが親を親として認めるかどうかなんて、本当は子ども自身に委ねるべきではないでしょうか。強制的に認めさせることではないはず。

要は、自分に自信がないから、子どもが「反抗的」だとイライラするのです。

自信がないから、「子どもがちゃんとしない」と、自分を責められているような気持ちになり、不安になるのです。「反抗」=「否定された」気持ちになるのです。いま思えば母も本当は自信がなかったのでしょう。

でも、でも、です。
そもそも「反抗的」っていう言葉に、私は違和感があります。

「反抗」の対義語ってなんだ?

「反抗」の対義語って、ご存じでしょうか? 
それは「服従」です。

子は親に服従すべき。

……そういう大前提が存在しているということになります。ちょっと怖い!

・もう幼稚園(学校)に行く時間
・もう家に帰る時間
・幼稚園(学校)には毎日行くべき
・お友達にやさしくすべき
・勉強すべき

そういう大人が「善かれ」と思っているジョーシキ。それは本当に疑うことのない「最善」なのでしょうか。親が促した「行動」は「服従すべき」と思えるほどに、わが子にとって重要なのか。いま一度「常識を疑ってみる」ことも必要ではないか。私の持っている常識の範疇を超えている長女を育てていて、私はそう思いました。

もしも「いますぐ服従すべき」だとまでは思っていないのなら、ぜひ、子どもたちのことばにしっかり耳を傾けて、まずは一度「本人の気持ち」を受け止めてみませんか? 

あら、そうなのねぇ。
あなたは○○したいのね。
でも、いま、ママは仕事に行かなきゃいけないの。
だからね、本当に時間がないのよ。
帰ってきたらいっしょに○○しようね。

などと、しっかり目を見て伝えてみる。イライラするのではなく「状況説明」です。

それですぐに聞いてくれることはないけれど、なんとなくは伝わるでしょう(一番いいのは、執着していることよりも、もっと子どもが喜びそうなことを利用して誘うこと)。

そして、その一方で、ゆっくりと自分と向き合う時間を持ってみてほしいのです。「なぜ自信がないのか」を探し求める冒険に出てみてください。そうするとだんだん子どもにイライラしなくなっていくはずです。

そして、もう一つ、伝えたいこと。
親の愛情は「リアルタイム」に伝わるのではない……ということ。

でも、愛情はいつかきっと遅れて届くよ。と、渦中の悩めるママ・パパに伝えたいです。

私の長女など、「反抗期」という言い方をするのなら、1歳半から二十歳までずっと「反抗期」です(笑)。それでも卒業するころには、「ママが言いたかったことがわかったよ」なんて話をしてくれるようになり、その後、就職してからはよく仕事の相談をしてくれるようになりました。いまは嘘のように仲よしです。本当は彼女はただ「ママ、私のこともっと見て」と言いたかっただけなのだと、いまは思います。

子育てとは「人(血の繋がった子を含む)は思い通りにはならない」と学ぶこと(たぶん)。お互いに成長できれば、親が「手本」である必要はない。

特に、「共感」するのが難しいほど、「自分のなかのジョーシキを飛び越えているなぁ」と感じる子を授かったのなら、「手本」は無理です(笑)。魚のような性質を持つ母には、かえるみたいないつか陸の上に上がってしまう子に手本を見せることはできません。自分は地上を生きる四つ足の動物なのに、大空を舞う鳥のような子に手本を見せることはできません。同じ人間だ、血を分けた親子だという視点に居続けると、お互いにしんどいだけです。

「子」育ては、「己」育て。
「子」育ては、「個」育て。

自分のお腹から出てきたのに、へその緒で繋がっていたのに、子どもたちは本当に個性豊か。自由です。全然わかり合えない価値観も持ち合わせています。それを「面白い」と思うには、自分が変わっていくしかない。

「子どもにイライラしている自分」をちょっと客観的に見ることができれば、ちょっぴり恥ずかしく思えてくるはずです。さらに、そんな「恥ずかしい自分」を素直に認めたとき、子育てはスーッとラクになっていきます。私はそうでした。

手本を見せて、服従させる。
それが、本当に愛しいわが子に求める生き方?

子どもにイライラする、ということは、それを求めているということになるのかもしれません。

わが子を「ありのまま受け入れていない」のは、自分のほうなのに、先にわが子に「ありのままを受け入れて」と言っているのと、同じことなのかもしれません。

そんな風に感じた私が目指したのは、「尊敬される立派な母」ではなく「楽しそうに生きるオトナ」です。等身大の自分をそのまま見せてきたからこそ、いま、娘たちに「ママ大好き」と言ってもらえているのだと自負しています。

子どもを「ひとりの小さな人間」として認める子育てをしてきた私には「威厳」はありません(汗)。でも、とても風通しのいい親子関係を築けたことは、私の誇りです。

「手に負えない」と感じる子を育てているママ・パパは、きっと、人生を冒険するチャレンジャー。私はそう思います。

どこまで「ありのまま」を受け止めるのか、そのあたりは、また別の機会に。

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