考えも好みも、見ている景色も、どうやら人とは違う。そう感じたのは小学生のころ。悪意がないのに悪く思われる。大切だと思っていることを笑われる。

どう伝えたら友達にちゃんと伝わるのか。誤解があまりにも多くて、必死で作文を練習した。それが後の仕事である「編集者」「ライター」に繋がった。そのぐらい誤解されていた。

大人になってからも、そうだ。「そういう意味で書いたのではない」「そういう意味で話したのではない」。そのズレはどこまでもある。

その「ズレ」のおかげで、ときには人に「生きる希望」を与え、ときには勝手に「敵視」される。ということを経験してきた。その結果、わかってきたことがある。

相手の人生において、これまに存在しなかったほど、私は変わっているのだ。

ということ。「認知」の過程において、人は、新しい人と出会ったとき、通常各自の「フォルダ」に振り分けていく。心理学や教育の関連分野で、シェムとか、シェマとか聞いてことはないだろうか。枠に当てはめて分類して記憶におさめていくのが人間の認知の方法だ。よくある「マウンティング」は、その認知を、外から思い通り操るための行為だといえる。

私のタイプは、その人の「既存のフォルダ」には当てはまらない……ということらしい。既存のどのフォルダに入れたらいいのかわからない。

だから、怖い。
だから、敵視する。拒否する。
だから、とりあえず「嫌い」フォルダに入れる。

だれにも理解してもらえない恐怖。それと私は小さいころから戦ってきた。家族にも理解されない。友達にも理解されない。

私はどこにいるのか。
だれを探せばいいのか。
だれと仲よくなればいいのか。
……そう思っていた。そして、人生の先輩に相談すると言われるのが、

「みんなフツウではない」
「みんな個性がある」
「あなた一人じゃないよ」

とはいえ、それにしても話が合う人があまりに少ない。……私は、中学のときに学校でほとんど話すことをやめたのには、そんな理由もあった。

特に、大きく人と違うのは、私が見ている「景色」だ。

仮に、普通の人には「1」の視点があるとする。私には「2」と「5」「6」の層の視点がある(とする)。俯瞰が得意なのは、そのためだ。仕事に役立っている。

宇宙と繋がっている人は、おそらく「1」と「7」「8」あたりの視点を持っている。「7」が視えるわりに「1」しか見えないのでアンバランスで生きづらいように見えるし、「2」の視点が抜けているから、自分のことを客観視できない、そして相手の魂年齢もわからない。スピリチュアルに強く傾倒している人に、意外に固定観念が強いタイプが多いのは、そのためではないかと私は思っている。7の人に上から目線で説教されることがちょくちょくあるのだが、私にとっては当たり前の景色であり、大前提であることなのであえてそういう話をしていないのだが……ということばかりで、よくムズムズしている。つまり、7の人は、私が見えている景色を、「今生」で学んでいるのかもしれない。自分が学んだばかりのことを「相手が知らないだろう」と決めつけてしまう視野の狭さと、宇宙との繋がりとの歪みを感じて不思議に思う。

この状況から考えられることは、「宇宙の記憶が残っている人」「宇宙との繋がりがまだ深い人」は、地球の魂としては「若い魂」として生まれてくるのだろう。なぜなら「人間」をより「自分ごと」として捉えて学ぶ必要があるからだ。私は魂としては古い自覚があり、宇宙の記憶がかなり薄く、スピリチュアルのなかでも宇宙だのレムリアだのっていう神秘的な話をする人たちのことはよくわからない。宇宙の話をする人のほうがいろいろわかっていてすごそうに思えるのに、地球人の魂として幼い……というところに「宇宙的な平等」を感じる。

「魂がどう成長していくものか」。ということについては、私は、なぜか小さいころから自覚がある。つまり、互いに「知らないこと」があるということである。

お互いに見えていない「視野の層」があるのだと知ることは大切だ。相手から学ぶことがある、相手が知っていることを自分が知らないかもしれないと知っていることは重要だ。謙虚さは、人と人を気持ちよくつなげる。

そして、自分から見えていない層のことは、お互いにシェアすることで学び合うことはあっても、競い合う必要も、説教する必要もないはずなのだが……と、私は思っている。そのあたりのことがわかっている方はどうも少ないようだ。

今、この世に生きている多くの人は「1」のシングル視点だけなので、目の前のことに苦しみだすと長いのだろう。近視眼的なところから離れてみることが難しいらしい。

2つ以上の視点を持つ人たちとの出会いは20年ほど前から増え、そこから不思議なぐらいにデュアル以上の複数視点の方と少しずつ出会い、やっと私は孤独感が消えていった。その一人が、今の夫だ。

私と夫は、見ている「層(2、5、6)」は、ほとんど同じだ(夫のほうがおそらく1に近い2なのだろう。彼の言葉のほうが「1」の人に届きやすいようだ)。

ただ、夫婦で見ている方角は違うイメージだ。東西と南北なのか、上下と左右なのか、ちょっとわからないけれど、それだけ振り幅があるので、互いの景色を伝え合って共有することで、魂の螺旋が動きやすくてどんどん成長できるし絆が深いのだと思う。

視点の話は、ことばだけでは伝わりにくいと思うので、このあたりにして。

マイノリティの人には役割があると思う。

見えない地図のなかで灯台になるような生き方をする役割だと思う。大勢の人にとっての目印であり、なおかつ、壁でもある。その人と出会うと、なにかに気づかされる。その人と出会うと、自分のなかにあるもやっとしたものが晴れる。そういう役割がある。一方、「もやっとしたもの」に触れることで、その人が「心のざわざわスイッチを入れられた」と攻撃してくることもあるので、ある種「壁」「課題」の役割もしなければならない(しかしそれは本来、その人自身の問題だ)。

ということは、マイノリティの人は魂的にはかなりの「おじいちゃん」「おばあちゃん」である必要があるし、だからこそ乗り越えられるのだろうと思う。

みんなが右回りに動いているときに、左回りに動く人がいると、気になってしまうだろう。だから排除されたり、厄介者扱いされたりするけれど、エネルギーって、ずっと右回りより、ときどき左への旋回を入れることで、活性化されることは多いのではないかと私は考える。

大きな視点で見れば、必要な存在なのだ。

例えば、コーヒーに砂糖を入れて混ぜるとき、右回りにしておいて、少し左回りを加えてから、また右回りにすると、よく混ざるでしょう? そういう役割。

そういう人は、圧倒的に数が少なくできているし、魂としてのお役目があるから「マイノリティ」を今生で生きることになっているのだろうと思う。

だから、マイノリティの内容は違えど、私は、「普通ではない」と感じる人を、応援したい。シングルマザーもそうだし、LGBTの人もそうだし、虐げられてきた民族、人種に反応してしまう。「喪失体験」の多い人に反応してしまう。

一般的に理解されない=だから周囲を攻撃する……のは違うと思う。
一般的に理解されない=だから周囲から心を閉ざす……のも違うと思う。
一般的に理解されない=私は特別だから、あなたたちは私のアドバイスを聞きなさい……も違う。

もっと、ゆったりとこの世を見守っていく役割があるのだろう。

そして、マイノリティは「人に理解してもらうこと」「人に好かれること」を過剰に期待はしないのがよさそうだ。「人」への執着を手放し、第6の層の俯瞰の視点を大切に、禅的に淡々と「目の前のこと」をこなす。この層の視点を持つ人が少なすぎて、ときどき恐ろしく孤独を感じることもあるので難しいのだけれど、実はきっと仲間がいるのだろうと信じている。

自分として生きる。
どこを見て生きるのか。
どう在りたいのか。

そこを大切に、一歩ずつ生きていけば、おのずと味方と繋がっていける。そう思っている。

Follow me!

「マイノリティの生きる道」への2件のフィードバック

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。