「愚痴の流儀 〜私の場合〜」の続編です。
物心ついたころから
私は、なぜか自分の言動の多くを客観視していた。
今、目の前を見ている自分と
離れた場所から自分を見ている自分。
どちらの視点もあった。
おかげで
人からどう見られているか
自分はどう感じているか
そこから目を逸らさずに向き合っていた。
向き合わざるを得なかった。
というほうが正しいかもしれない。
小さいころは
『あぁ、今、わたし、ごまかしたな』
『今、私は言い訳しているな。かっこ悪いな』
『相手のせいにしてしまった。胸が痛む』
という具合にただひたすら「気づく」だけで
「自分の言動に責任を負う」
ということまではできていなかった。
それでもどこかで
「誰が見ていなくても良いおこないを」
という神様ポイント運動(仏教でいう『徳を積む』)を
一人でやっていた。
人の人生には「見えないだれか」に
大きく影響されるということを知っていたのだ。
その一方で
「人間は、その人の『見ているところ』で人を評価する」
「せっかくいつもがんばっていても
評価する大人が見ているときに行動していないと
評価が低くなってしまうのだ」
ということに気づいた小学生のころ
「先生の目があるところで、さらにがんばる」という
姑息な手段も身につけた(笑)。
また、あまりにも人に裏切られるので
「 それなら自分も悪さをしてもいいか」
……なんて思ったこともある。
何度も思ったけど、ほとんどやらなかった。
それでも人の人生に於いて数回
故意に人を裏切ったことがあるのだが最終的には
「どれだけ泥をかけられても美しく在る」
を自分の信念としてきた。
そもそも思っていないのに褒めたり
本当は悪いと思っているのにごまかしたり
そんなことが私にはどうも相性がよくなくて
だんだん自分に対して不快になっていく性分なので
極力ごまかさずに
「あぁ、今のは私のエゴだ」と
素直に認めて、謝罪できることは必ずしてきた。
常に「心の掃除」を心がけている。
部屋の掃除は毎日できていないが
心の掃除についてはかなりマメなほうである(笑)。
「謝罪」については
相手が赦してくれるかどうかより
自分が自分のエゴに気づいて
それを素直に表現できるかどうか。
相手の「赦し」については
正直、こちらの関与することではないので
任せるしかないと思っている。
文字通り、相手の気持ちについては
「手放す」ことにしている。
自分の気持ちをごまかしていないかどうか
それをしっかり毎回「捉える」ことができても
その「愚痴」を「書くかどうか」については
ダメだとわかっていながらセーブするのが苦手だ。
一番身近な夫については、特にそうはいかない(笑)。
「つい書いてしまう」傾向にある。
「書いてスッキリ」。
女子で集まって愚痴ったり
だれかを捕まえて愚痴を聞いてもらったり
そういう習慣がないことと
中学時代から書いてきた「日記」の習慣もあり
ついネットでも書いてしまう。
仕事以外では極力、計算して構成するのではなく
なるべく「そのときの感情」を表現してしまいたい
というのもある。
そのほかにも、意図的に
書いていることもあった。
その意図はいくつかあるのだが
一つはいわゆる
「エアリプ」というやつだ。
本人が読むかもしれない場所に
誰宛ともなく伝えたいことを書く。
これはやめるべきだ。
とはいえ、それをすべてやめると
どこにも出しようがなくなってしまう。
そこで、自分のなかではこの数年
あらたな愚痴の流儀を加えた。
③特定の個人に対する愚痴を
相手にわかるようにネットに書くのはNG
ただし、「自分の考え」を書くために結果的に
読んだ人に「自分のことかも」と
思わせてしまう可能性がある分には許容範囲とする。
という例外を含めて
自分のルールとして決めている。
もちろん、前編に書いたように
「生」ではない状態になるまで待つことが前提。
生々しい感情を持ったままだと
それは微細な感情の中身はさておき
ただ「負のエネルギー」として人に届く(と感じる)。
そうそう。
特定のだれかを批判する言葉を書くと
名前を書いているわけではないのに
不思議なくらいにちゃんと相手に届く
……って、ご存じでしょうか(汗)。
「言葉」を仕事にしている私が書くとなおさらのこと。
気をつけなければいけないのだと
最近、よく思います。
「言葉」を扱う能力に秀でている
……ということは、その人への批判の
エネルギーも、きっと倍増してしまうのでしょう。
だから、私のような仕事をしている
ライターや編集者は
意図して批判的に書いてはいけない。
正直、仕事以外で書く文章まで配慮するのは面倒です。
一字一句、エネルギー的に細部まで配慮している身としては。
でも、仕事で培ってきたパワーがあるだけに
プライベートの言葉にも気をつけなければならないのだ
と最近は思います。
ゆえに
「意見」「考え」は述べても
あえて「批判」「愚痴」にならないように
仕事以外でも配慮すべき。
最近は、そう思っています。
「あなたが書くとエネルギーが乗りやすい」
メンターに指摘されたこともありましたが
そういうことだったのでしょう。
ハートと言葉が一致しているゆえんかもしれません。
気をつけていきたいものです。
愚痴が楽しい!という女性は多いものです。
私も、愚痴による特有の一体感も
理解はしているのだけれど
それでもやはり「愚痴る会合」が嫌いです。
「愚痴の言葉」を浴びていると気分が滅入る。
だから私はほとんど
自分からは愚痴りません。
つい乗ってしまうことはあり反省していますが。
だから、本音の愚痴は
夫にしか言わないことにしています。
夫にはなんでも話せるし、
私がいつまでも毒を引きずったり
愚痴がエスカレートしてひどくなることがない
ということを彼は知っているので。
でも、そうすると、夫の愚痴をどこで言うのか(笑)。
昨年までインスタでちょこちょこ書いていたが
いろいろあって、それも辞めた。
やはり「愚痴」はネットでは
極力控えたい。
「記す」とそこに愚痴エネルギーが残るから。
愚痴エネルギーをネット上に
どんどん定着させてしまうことになる。
そう実感できたので、もうやめた。
嫌な「できごと」に対して
嫌なことをしてきた「相手」に対して
ずっとエネルギーを送り続けたくないし
愚痴り続けることで
被害者も加害者になっていって
負のエネルギーは増幅していくと感じるから。
親に「ありのまま」を否定される家庭環境で育ち
外では、何度もいじめや裏切りにもあってきたことから
ダークサイド(陰)に陥りやすい私だけれど
あんなに大変だった「前夫」のことも
赦せて手放せたぐらいなので「陽」の気質も強い。
今は、基盤に「しあわせ」な感情を持っているのだから
過去がどうあれ
目の前で起こる小さな「負のできごと」など
簡単にクリアにしていける自信もある。
それに、「愚痴りたいとき」って
だいたい自分を愛せていないときだ。
自分を大切にできていないときだ。
そして、自分より他人にフォーカスしているときだ。
考えれば考えるほどムダな時間だ。
エネルギーの浪費だ。
愚痴る作業とは、自分の「負の感情」の確認。
胸に残るこの「もやもや」はなんだろうか。
どこから来たのだろうか。
自分がそう感じたのはなぜか。
整理して確認だけしたら、手放す。
「あ、ゴミが落ちてる」
「なんのゴミだろう」
「そっか空き缶か」
じゃ、リサイクルゴミ箱だな。
ポイッ!
そんな感じでいいのではないだろうか。