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標高2800mに糸ようじ

 数年前に山番をしていたときの五竜岳山頂(2800m)付近の写真だ。山番というのは山小屋で生活しながら、登山客のお世話をしたり、滑落など何か問題があれば命がけで救助に行く(私は救助には行かないが)。

 私は標高2500mの山小屋に夏の間の2ヶ月半いた。限られた資源しかない山の上に住んでいると、感じることがいろいろある。例えば、夜の月明かりがこんなに明るのかとかと感動することもあった。「夜を暗くしているのは、私たちの街明かりだった」のだと思った。電磁波や化学物質が少ない環境、空気が薄い環境、物資が限られている環境にいることで感覚がどんどん繊細になっていくのも感じていた。

 この写真を見ると、左下にペットボトルが写っている。これは撮影者の友人のものだったと思うが、これがゴミだとしたらどう感じるだろうか。雲海が広がる素晴らしい写真が急に現実化し、残念なものに映らないだろうか。

 しかし、現実は標高2800mの山頂やそれまでの道のりにもゴミがたくさん落ちている。行動食のお菓子のパッケージやコンビニのおにぎりの袋、ティッシュから髭剃りまで落ちている。山頂で「糸ようじ」が落ちていることもあった。絶景の山頂で達成感を味わいながら歯間を掃除したくなる気持ちは私にはわからない。それともずっと歯間に挟まった汚れが気になって登山どころじゃなかったのかもしれない(笑)想像すると面白いが、経緯が想像できないゴミが落ちていることが多いのでビックリさせられる。山のような極限地では、紙切れ一枚でも重さを感じてしまうので、捨てたくなる気持ちもわからないことはないが、捨てられたゴミを命がけで拾っているレンジャーがいることを私は知っている。

 どんなに素晴らしい自然を感じる場所でも空き缶一つ落ちていたら、それがすベてを台無しにしてしまわないだろうか。ゼロ磁場と称する場所に行っても、目の前に高圧電線が通っていたら、「本当にゼロ磁場なのだろうか?」と疑ってしまわないだろうか。でも、それらは気にならないという人もいるだろう。

 私は山や森、海に行ったときは、来たときよりほんの少しだけでもその場所がより良い状態になればいいなぁと考えている。そのために少し何かできれば、私が来た意味があるからだ。先日も熊野の森に入ったとき、ゴミを拾い始めたら、空き缶や空き瓶などでビニール袋がいっぱいになってしまった。

 私がやっているUnfolding Bodyworkでも、「場」作りがとても大事だ。物が多い場所や乱雑な場所では、いいボディワークはできない。クライアントの心身が解放されるためには、それなりの「場」が必要だ。それと同じように、次に来る人のためにも、山や森、海を私ができる範囲でよくしていきたい。それが自然のためになるだろうし、自然が良くなればそこを訪れる人の心身にも良いはずだから。

 それにこのまま自然が汚れてしまったら、人は何に癒しを求めたら良いのだろうか。それを考えると恐ろしい。無関心でいたら、気づいたらなくなっていたなんてことは何としても避けたい。一人では大したことはできないが、関心を持って何か行動をしていきたい。

 しかし、私はゴミが悪いと言いたいのではない。山で道に迷い、どちらに進めば良いのかわからず途方にくれていたときに、お菓子の「キットカット」の袋ゴミを見つけたことがある。そのときほど、ゴミに感謝したい気持ちになったことはない。ゴミという人の形跡が自分が進んでいる道が正しいと教えてくれ、勇気づけてくれたからだ。一概にゴミが悪いとは言えない、私のように誰かを勇気づけることもある、と私は知っている。ゴミと言えども、状況や捉え方次第で価値がゴロッと変わるのが面白い。でも、ゴミは落ちていない方が気分がいい。

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