単独ライブにて『Desperado』。当時はコピーばかりでした@2005年1月

まさか、自分が歌を歌いたい人だなんて思いませんでした。そんなことを夢見ていたことなどすっかり忘れていました。

2002年に離婚。3人の子どもたちを抱えて一人で生きると決意すると、それまで自分を縛っていたものが、一つずつ剥がれていきました。親との確執に気づいたり、本当の自分の思いに気づいたり。

自分を一つずつ解放する度に、新たな扉が見えてきて、それを開け放すと、さらにまた扉がある。どんどん開けていく過程で、MISIAのライブ中に、突然……

「歌いたい!」と、思ったのです。

いてもたってもいられなくなってきて、2003年に歌を習い始めました。社会人バンドを始めたものの、それはいろいろとありまして、自然消滅。この音源のころは、ギターの上手な方に演奏していただいて、一人で細々と歌っていました。

でも、中学生のころ「シンガーソングライターになりたい」と思っていたことには、そのときは、まだ気づいていませんでした。当時の恋人は、クラシック系の音楽をずっと演奏してきた人で、彼のレベルの高さの前では、自分が音楽を「作る側」になれるとは想像できなかったのもあります。そして、彼がよく使う「表現」という言葉が苦手でした。

正直に言うと「表現なんて言葉を使って、芸術家ってやだわ」ぐらいに思っていました(反省)。彼が「表現の大切さ」を語れば語るほど、イライラしていました。せっかく大切なことに気づかせてもらっていたのに、上から目線で言われている気がしてました(それは私がコンプレックスを持っていたからなのですが)。

次の彼は、大学で詩を専攻していてコンテンポラリーダンサーでした。やはり彼も芸術家だったので、私はそこでも「表現」という言葉を聞くことになります。そして、また私は、自分の「可能性」を閉ざしていきます。

「表現」は彼らアーティストだけのモノだと思っていました。

彼らがほかの表現者を批判しているのを聞くと、さらに、私みたいなフツウの人が、「簡単に『表現』なんてしてはいけない」ぐらいに思ってしまうのでした。芸術的センスがある特別な人しか、「自分が作ったもの」は外に出してはいけないと思っていたのです。

その人と別れたあとに、体験取材で「ポラリティセラピー」と出会います。命まるごとを捉え、エネルギーを循環させる素晴らしいセラピーです。2007年のことでした。そのセラピーのワークのなかで、踊ったり歌ったりしたことが、その後の私の人生を大きく変えました。

まず踊ったことで、自由に踊れない自分に気づきます。自分の中にはクラシックバレエが染み付いている。どんな音楽がかかっても、指先とつま先がピンと伸びてしまう。しかもそれは、母親から厳しく礼儀を躾けられたこと、母がクラシックバレエとクラシック音楽を好きだったことと重なり、まるで母の操り人形のような気分になり、がっかりしてしまいました。

そして、次に、みんなの前でアカペラで歌ったときのこと。歌詞がわからないので、「あぁ」だけで『アメージンググレイス』のメロディを歌ったのですが、歌い終えるとシーンとしてしまった状況に、自己肯定感の低い私は、恥ずかしくなって、ペコっとお辞儀して座ってしまいました。「なにも反応がなかった!」というのが私の判断でしたが違いました。よく見るとみんな目頭を押さえているのです。少し遅れて拍手が起こりました。ただ歌っただけなのに「ありがとう」と言われました。声ひとつで、歌ひとつで、人を感動させる力が自分にあったのだと驚きました。

それから、私はクラシックバレエを卒業するために、アフリカンダンスなどのダンスのワークショップに時々参加するようになりました。5リズムを知ったのもその時でしたが、まだ当時、ティーチャーがお一人だけでなかなかタイミングが合わず体験できませんでした。歌は、少しずつでも人前でやはり歌っていこうと思いました。

それでもやっぱり「生まれ変わったらシンガーソングライターになる」と、自分で歌を作ることについては、来世に持ち越していました。さらに娘たちがどんどん大きくなり、学費がかかるので仕事をどんどん増やして音楽から遠ざかってしまっていたのです(続く)。

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