小学生のころ給食を最後まで食べて、休憩時間になって、掃除の時間になっても食べ終わらず、5時間目になるころに先生に「もう! 早く給食室に戻してらっしゃい!」と叱られる子が、クラスに一人はいたと思う。
それが私だ。
身長はクラスで1〜2番目に小さく、もやしのように細く、とにかく食欲がない。給食はもちろん、家でも食べなかった。みりんや砂糖など甘い味付けが嫌いという母が作る和食メインの食事は、子どもには馴染みにくかったのだ。親戚からは「鳥のエサをついばんでるみたい」と言われるほどだった。それほど「食べること」に興味のない子だった。その理由についての分析は、また別の記事に書くとして。
子どものころに嫌いだった食べもの。セロリ、酒粕、鰹節。野菜全般が苦手で、ほかにもいろいろあるけれど、とにかく食卓に出てくるもののなかでは、ダントツに嫌いなのがこの3つだった。
鰹節は母もあまり好きではなかったので、葉野菜の和え物に入っている程度だったので、さほど困ることもなかったのだけれど、セロリはサラダによく入り込んでいた。そして冬になると粕汁が登場する。酒粕の香りがすると憂鬱になった。末っ子のわがままで「お母さん、お願いだから、私のだけ味噌汁にして」と頼んで、分けて作ってもらっていた。
そんな嫌いな食べもの。一生変わらないと思っていたのだけれど、実は、私のこの3つを大人になってから好きになった。
まずは、セロリ。
山崎まさよしの歌にまでなっている、あのクセのある「セロリ」。好きかもしれないと気づいたのは、33歳で離婚した直後のこと。「トマトジュース」が好きだった私がうっかり間違えて買ってきた「野菜ジュース」。野菜ジュースは嫌いだった。セロリの味がするから。「あぁ、失敗した! トマトジュースを買ったつもりだったのに!」。でも、もったいないので飲んでみた。
「え? おいしい! しかもこのクセのあるセロリがおいしい!」
なんでだ? わからないまま、野菜ジュースを飲み干した。旨いっ。知らなかった。野菜ジュースのセロリは、セロリが入っていることがポイントだったのだ!……とすら思った。それから、私はセロリを食卓にやたらと出すようになった。娘たちはもちろん辟易していたが、私は「嫌いなものを好きになる」という不思議体験に陶酔し、何度も確かめるように、セロリを買った。
次に、酒粕。
子どものころは鼻をつまんで「ケンミンの焼きビーフン」のCMみたいに「酒粕入れんといてーな」と騒いでいた……というのは嘘だけど(わが家は大阪弁禁止ルールだった)、そんな気持ちで、クサいクサい酒粕……と鼻をつまんでいた。ところが44歳で京都に引っ越してきて、同じ左京区に酒蔵があると知り、そこで相方が買ってきた酒粕を入れて、粕汁を作ってみたときのこと。
「え? おいしい! この香りごとおいしい!」
なんでだ? 出た! セロリと同じだ。嫌いなものが、「嫌いじゃない」をすっ飛ばして「好きだ!」と感じる。
そんなことがあるのか! あるのです。いやいやいや、粕汁おいしいよ。酒粕おいしいよ。私はまた、酒粕を冬になるとは買うようになったのだった。
そして、鰹節。
口に含むとキシキシするあの感じが嫌いだった。たまたま母も「猫を思い出す」という不思議な理由であまり使わなかった鰹節。外で買った「たこ焼き」なんかに乗っかっていると、取り払ってから食べていたっけ(大阪で生まれ育ったが福井県出身の両親だった私の実家には、たこ焼き器ももちろん無い)。
ところが、これも京都に越してきてからのこと。これまでの乱暴な出汁の取り方(昆布や干し椎茸を割り入れる)ではなく、夫と暮らすようになりゆとりができ、ちゃんと出汁を取るようになってから、どこのメーカーの鰹節がおいしいか味を見るために、袋から出した鰹節をそのままパクっとつまんでみるようになったときのこと。
「え? おいしい! このままむしゃむしゃ食べたい!」
なんでだ? 出た! セロリと酒粕と同じだ。嫌いなものが、「嫌いじゃない」をすっ飛ばして「好きだ!」と感じる。それから京都COOPの鰹節を2袋買うようになったのだ。1つは出汁用。もう1つは「ママのん」とマジックで記入してキッチンに置いている(おやつ代わりにむしゃむしゃ食べています)。
そんな私に迷惑しているのが、娘たち。
セロリのときは、まだ娘たちは7・4・2歳ぐらい。セロリ料理が急に食卓に並ぶようになって、もともと私に似て野菜嫌いの次女(当時4歳)はかなり困惑していたようだ。
セロリ料理を出したある日、私がキッチンに立つ度に、次女が不自然に「こふ こふ」と咳をする。見ていると、小さな手元にティッシュが。咳をするときに、口に手を当てなさいとは躾けてきたけど、なぜティッシュ? こっそり食器棚の影から見ていると、咳をした後に、ティッシュをきゅっと閉じている。……あやしい(笑)。数回そんなことが続いたあと、近くのゴミ箱にティッシュを捨てにいく次女。私は気づかれないように素早くそれを拾い、次女の前で開けて見せた。
私「これは、なんだろ?」
次女「……」
私「食べよっか」
噛んだ形跡のないきれいな形のセロリを取り出してお皿に置くと、涙目になっている。
私「ママは、お尻に目がついているんだからね」
と伝えると次女が黒目がちな丸い目を見開いて驚いてフリーズ。「そうなんだ!」とこの状況を咀嚼することに集中しているのがわかる。かわい過ぎる。
その後、なんでも食べる長女からも「ママ、セロリ、もういいよ」とクレームがきて、セロリ祭りは終わった。ちなみにゴミ箱はきれいなもので、数枚のティッシュに包まれていたので衛生面では心配ご無用。
嫌いな食べものを好きになる感覚は、嫌いな人を好きになる感覚とも似ている。
私は第一印象で一方的に人を嫌いになることはほとんどない。相手から攻撃されて初めてはっきりと「嫌い」になる。ノリが合わない人や、エネルギーが前に出過ぎている人とは距離を置くことがあるが「嫌い」にはならないのだ。
幸か不幸か、言葉にどんなエネルギーが乗っているかがわかってしまう、いわゆるエンパスタイプなので厄介だ。仮に本人が無自覚に嫌味を言っていたとしてもキャッチしてしまうが、そんなことだけで嫌いになることはないし、こちらからは仲よくなれるように歩み寄るという方針だ。
10代のころ、自分の理想の「いい子」になりたくて、ひたすら自分の「嫌い」をなくそうと、「嫌なことをしてきた人」のことも、許すべきだし受け入れるべきだと、こちらからは一切、彼女たちの愚痴も言わずに、関係を修復すべく努力していたことがある。
ただ、どれだけがんばって「良い子でいよう」としても、人は勝手に嫉妬をするし、一方的に「ちょっと変わった人」というレッテルを貼り「のけもの」にするものだ。
ということに気づかされるできごとが続き、自分のなかにダークなエネルギーが鬱積しているのに気づいた。高校3年生のときだった。そして、私はやっと「どんなにこちらが誠意を持っていても嫌ってくる人を、無理して好きになろうとしなくてもいい」と自分に許可を出した。傷ついた自分を押し殺してまで、攻撃してくる人を好きになる必要なんてない。
光あれば、闇がある。
「100%の善人」になるのは無理だし、不自然だ。
無理をせず、こちらからは悪意を持たず、それでもしんどさを感じる人(攻撃的な人)とは、距離を置く。あくまでも自分からは余計なことはするまい(未必の故意は除く)という方針だ。
とはいえ、いいイメージを抱いていなかった人や、自分を攻撃してきた人を、好きになれたとき、和解、心が融合したとき……そこに深い幸せを感じる。うれしくて何度も噛み締めてしまうことがある。「心のつながり」を感じることが好きなのだ。
「嫌いな食べもの」を好きになったとき、言葉にできない喜びみたいなものを感じるのは、それと似ている。
苦手や嫌いを受け入れたとき。
むしろ、それを好きになれたとき。
私の心は動く。
そんな「心が動く」ことについて、これからいくつか記してみたいと思う。
ちなみに、給食を一番に食べ終わって外に飛び出していく男子。夫がまさに、そのタイプだったそうだ(笑)。